ITプロジェクトにおいて、「要件定義の資料作成責任は誰にあるのか?」という疑問は、多くのビジネスパーソンやエンジニアが抱える共通の悩みかもしれません。特に「普通はエンジニアが全て書くものだ」という意見を聞いて、漠然とした不満や違和感を感じたことはありませんか?もしそうであれば、あなたは正しい感覚を持っています。その一言が、実はプロジェクトを成功から遠ざけ、多くの手戻りやコスト超過、ひいてはプロジェクト炎上を招く危険性をはらんでいるからです。
本記事では、ITプロジェクトにおける要件定義資料の作成責任の真の姿を深く掘り下げ、「エンジニアが全て書く」という考え方がなぜ危険なのかを具体的に解説します。そして、ビジネスと開発が協力し合い、真の価値を生み出すための理想的な要件定義の役割分担と、その効果的な要件定義の進め方について詳しくご紹介します。この記事を読めば、プロジェクトの成功への道筋が見え、あなたの悩みが解消されることでしょう。
「要件定義資料の作成責任」は誰にある?誤解を解き放つ
「要件定義」とは、ITシステムを開発する上で、どのようなシステムを、なぜ、どのように作るのかを明確にする、プロジェクトの最も上流にあたる工程です。この段階で作成される要件定義資料は、システム開発の設計図となる極めて重要なドキュメント。しかし、この「作成責任」について、明確な共通認識が持たれていないことが、多くのプロジェクトで混乱を招く原因となっています。
「要件定義はエンジニアが書くもの」という意見は、一見するとエンジニアが専門家であるため妥当に思えるかもしれません。しかし、これは大きな誤解であり、プロジェクトの成功を阻害する危険性をはらんでいます。
「エンジニアが全て書く」がなぜ危険なのか?5つの理由
なぜ「エンジニアが全て書く」という考え方が危険なのでしょうか。その根本には、ビジネスと技術の間に横たわる情報の非対称性があります。
理由1:ビジネスの本質を見誤るリスク
依頼側であるビジネスサイドは、自社の業務プロセス、顧客、市場、そして「なぜこのシステムが必要なのか」という事業上の目的(Why)や、それによって「何を達成したいのか」(What)を最も深く理解しています。一方、エンジニアは技術的な実現可能性(How)の専門家です。
もしエンジニアが口頭で聞いた情報だけを元に要件定義資料を作成した場合、ビジネスの深い文脈や、依頼側が本当に解決したい課題の本質を捉えきれないリスクが高まります。例えば、「売上管理システムを作ってほしい」という依頼に対し、エンジニアは「データを入力してグラフ化する機能」を想像するかもしれませんが、依頼側が本当に解決したいのは「手作業による集計ミスをなくし、月次決算を5日短縮したい」といった、より深いビジネス課題かもしれません。この本質を見誤ると、期待外れのシステムが生まれることになります。
理由2:認識齟齬の温床となる
口頭での情報交換は非常に便利ですが、人それぞれ解釈が異なるため、「言った」「言わない」や「そうは思わなかった」といった認識齟齬の温床となります。エンジニアが口頭情報をドキュメント化する際、どうしても自身の技術的視点や過去の経験に基づいて解釈を加えてしまうことがあります。
まるで「伝言ゲーム」のように、依頼側の意図が歪んで伝えられたり、暗黙の前提が抜け落ちたりすることで、完成したシステムが依頼側の期待と大きく異なる結果となることがあります。プロジェクトマネジメント協会(PMI)の調査でも、プロジェクト失敗の主要因の一つに「要件定義の不備や不明確さ」が常に上位に挙げられています。この認識齟齬こそが、手戻りや追加コストの元凶となるのです。
理由3:依頼側の思考停止を招く
「エンジニアが全て書いてくれる」という姿勢は、依頼側の思考停止を招きかねません。本来、要件定義のプロセスは、依頼側が自社の業務を深く見つめ直し、「本当に必要なものは何か?」「このシステムで何を実現したいのか?」を突き詰めて考える貴重な機会です。
このプロセスを丸投げしてしまうと、依頼側は自身のビジネスに対する深い洞察を得る機会を失い、結果としてシステムが完成した後も、その活用方法や改善に対する主体性が希薄になってしまうことがあります。これは、組織全体のITリテラシー向上を妨げ、長期的な視点で見れば企業の競争力低下にも繋がりかねません。
理由4:手戻り、コスト超過、プロジェクト炎上へ直結
要件定義はプロジェクトの「設計図」です。この設計図が曖昧だったり、認識齟齬をはらんでいたりすると、その後の開発工程に進むにつれて、必ず問題が顕在化します。開発が進んでから「思っていたものと違う」となれば、大幅な修正(手戻り)が必要になり、余分な時間とコストが発生します。これが続けば、プロジェクトのスケジュールは遅延し、予算は膨らみ、「プロジェクト炎上」へと一直線です。
「コンウェイの法則」は「システムの構造は、それらを設計する組織のコミュニケーション構造を反映する」と説いています。要件定義における責任の曖昧さは、組織内のコミュニケーション不全を反映し、それが直接的にシステムの品質やプロジェクトの成功に影響を及ぼすのです。
理由5:顧客自身の業務改善機会の損失
要件定義資料の作成プロセスは、単なるドキュメント作成作業ではありません。それは、依頼側が自身の業務フローを棚卸しし、現状の課題を洗い出し、あるべき姿を描く「業務改善活動」そのものです。このプロセスを通じて、これまで言語化されていなかった暗黙知が形式知化され、新たな課題や改善点が発見されることが多々あります。
この重要なプロセスをエンジニアに丸投げしてしまうと、依頼側は自らの業務を客観的に見つめ、改善する絶好の機会を失ってしまいます。結果として、旧来の業務プロセスをそのままシステムに載せてしまうだけで、真の業務効率化や生産性向上に繋がらない「現状維持」システムが構築されるリスクが高まります。
要件定義は「共同創造」であるべき理由
では、要件定義は誰がどのように進めるべきなのでしょうか。その答えは、「共同創造(Co-creation)」にあります。要件定義は、依頼側(ビジネスサイド)とITエンジニア(開発側)が、それぞれの専門性を持ち寄り、協力し合って一つの「共通の理解」を構築するプロセスなのです。
ビジネス要件とシステム要件の明確な切り分け
「要件」には大きく分けて「ビジネス要件」と「システム要件」があります。
- ビジネス要件:依頼側が「なぜ」このシステムが必要なのか、事業の目的、達成したい目標、解決したい課題、システムによって得たい価値など、ビジネス視点での「What」を指します。
- システム要件:ビジネス要件を実現するために、システムが「どのような機能」を持つべきか、「どのように」動作すべきか、性能、セキュリティ、操作性など、技術的な視点での「How」を指します。
この二つの要件は密接に関係していますが、その責任の主体は異なります。ビジネス要件の源泉は依頼側にあり、システム要件の実現可能性と具体化はエンジニアの専門領域です。これらを混同せず、それぞれの専門家が責任を持って担当し、連携することが重要です。
「共通理解」の構築こそが本質
要件定義の最終的なアウトプットは、単なる分厚いドキュメントではありません。その真の目的は、プロジェクトに関わる全てのステークホルダーが、完成後のシステムに対して「共通の理解」を持つことです。この共通理解があって初めて、依頼側は期待通りのシステムを受け取ることができ、エンジニアは迷うことなく開発を進めることができます。
家づくりに例えるなら、依頼側が「どんな家に住みたいか、どんな生活を送りたいか」を具体的に語り、建築家(エンジニア)がそれを実現可能な設計図に落とし込む共同作業です。施主が「とにかく広ければいい」と言うだけで、建築家が勝手に豪華な間取りを設計しても、施主のライフスタイルに合わなければ意味がありません。お互いの要望と専門知識を融合させ、納得のいく「設計図(要件定義資料)」を共に創り上げることこそが、成功の鍵となります。
理想的な「要件定義の役割分担」とは?
「共同創造」という考え方に基づけば、要件定義における理想的な要件定義の役割分担が見えてきます。それは、どちらか一方に責任を押し付けるのではなく、それぞれの専門性を最大限に活かし、協力し合う関係性です。
依頼側(ビジネスサイド)が担うべきこと
ビジネスサイドの役割は、システム開発の「Why」と「What」を明確にすることです。彼らが持つべき責任は非常に大きく、プロジェクトの根幹を支えます。
ビジネス要件の整理と「Why/What」の明確化
- 現状分析と課題の明確化: 現在の業務プロセスで何が非効率なのか、どのような問題があるのかを詳細に洗い出します。
- 目標設定とビジネスゴール: 新しいシステムで何を達成したいのか、具体的なビジネス目標(例: コスト削減、売上向上、顧客満足度向上)を設定します。
- 期待値の言語化: システムによって得たいメリットや、ユーザー体験を具体的に言語化します。
例えるなら、医者にかかる患者が、自分の症状や困っていることを正確に医師に伝えるのと同じです。患者が「なんとなく体がだるい」とだけ伝えても、医師は適切な診断を下せません。「いつから、どのような状況で、どんな症状が、どこに」という情報を整理し、共有することが、適切な治療法を見つける第一歩です。
一次情報の提供と意思決定
- 情報源の提供: 業務で使用している資料、データ、既存システムの情報など、一次情報をエンジニアに提供します。
- 疑問点への迅速な回答: エンジニアからの質問に対し、不明瞭な点を明確にするための迅速かつ的確な回答を提供します。
- 最終的な意思決定: システムの方向性や機能に関する重要な意思決定に対し、ビジネス視点での判断を下し、責任を持ちます。
業務プロセスの詳細化と期待値の共有
- ユーザー視点での業務フロー定義: システムがどのように利用されるかを想定し、具体的なユーザーの行動とシステムの反応を業務フローとして定義します。
- 制約条件の提示: 予算、納期、利用人数、法規制など、ビジネス上の制約条件を明確に伝えます。
- 優先順位付け: 数ある要件の中で、何が最も重要で、何を優先すべきかを判断し、優先順位をつけます。アジャイル開発におけるプロダクトオーナーの役割が、まさにこれを体現しています。
ITエンジニア(開発側)が担うべきこと
エンジニアの役割は、依頼側から提供されたビジネス要件を、技術的に実現可能なシステム要件へと具体化し、ドキュメントに落とし込むことです。彼らは「How」の専門家として、ビジネスサイドをガイドする役割も果たします。
ビジネス要件をシステム要件へ具体化
- 技術的な解釈と構造化: 依頼側のビジネス要件を、システムの機能やデータ構造に変換します。
- 機能要件・非機能要件の定義: 具体的な機能(ログイン、データ登録、検索など)と、性能、セキュリティ、保守性といった非機能要件を明確にします。
- システムアーキテクチャの検討: どのような技術や構成でシステムを構築するかを検討します。
技術的実現可能性と制約の提示
- 技術的なフィードバック: 依頼側の要望が技術的に可能か、あるいは難しいかを判断し、代替案や制約条件を提示します。
- リスクの特定と対策提案: 開発における技術的なリスクを早期に特定し、その対策を提案します。
- 工数・コストの見積もり: 定義された要件に基づき、開発に必要な工数とコストを見積もります。
ドキュメント化とプロセスのファシリテーション
- 要件定義資料の作成支援: 依頼側がまとめたたたき台を基に、より詳細で技術的な側面を考慮したドキュメントを作成します。
- コミュニケーションの促進: 依頼側と開発側の橋渡し役として、専門用語を避けつつ分かりやすい言葉でコミュニケーションを促進します。
- レビュー会の実施: 定期的にレビュー会を開催し、ドキュメントの内容がビジネス要件と乖離していないかを確認します。
「要件定義の進め方」を成功させる3つのステップ
理想的な役割分担が理解できたところで、次に具体的な要件定義の進め方を3つのステップで見ていきましょう。
ステップ1:キックオフで役割と責任を明確に合意する
プロジェクトの開始時、特に要件定義フェーズのキックオフ会議で、関係者全員が要件定義資料の作成責任を含む、それぞれの役割と責任範囲を明確に合意することが最も重要です。
- 合意事項の明文化: 「誰が何を、いつまでに、どこまで行うか」を具体的に文書化し、全員で確認・署名します。
- 「ビジネス要件は依頼側、システム要件は開発側」という原則の共有: この基本的な考え方をプロジェクトメンバー全員に浸透させます。
- コミュニケーションルールの設定: 質疑応答のプロセス、レビュー会の頻度、承認フローなどを定めます。
「登山チームで、ガイド(エンジニア)は道の知識や装備の専門家ですが、『なぜその山に登りたいのか』『どのルートで行きたいのか』を最初に決めるのは、登山者(依頼側)です。お互いの知識と意志を共有しなければ、遭難の危険があります。」この比喩のように、最初の一歩で共通認識を持つことが、安全な山行(プロジェクト)に繋がります。
ステップ2:ビジネスサイドの主体的な参加を促す工夫
依頼側が要件定義に主体的に関わることは、プロジェクト成功の必須条件です。そのためには、依頼側がスムーズに情報を整理し、表現できるような環境を整えることが、開発側の重要な役割となります。
- テンプレートやフレームワークの提供: ビジネス要件を整理するための簡単なテンプレート(例: 目的、課題、期待する効果、想定ユーザー、必要な機能リストなど)を提供します。
- ワークショップ形式での要件整理: 一緒にホワイトボードを使い、業務フロー図を書いたり、付箋でアイデアを出し合ったりするワークショップは、口頭よりも効率的に情報を引き出すことができます。
- 専門用語の翻訳: エンジニアは、技術的な専門用語を避け、ビジネスサイドが理解できる言葉で説明することを心がけます。
- 「たたき台」の作成支援: ビジネスサイドが最初から完璧なドキュメントを作成する必要はありません。まずは「箇条書きで良いので、思いつくままに書いてみる」ことを奨励し、エンジニアがそれを整理・深掘りする形で共同作業を進めます。
ステップ3:定期的なレビューで認識齟齬を徹底的に排除する
要件定義資料が完成したとしても、それが一度きりの確認で終わってはいけません。開発中も継続的に認識齟齬がないかを確認するプロセスが不可欠です。
- スプリントレビュー/定期レビュー: アジャイル開発のスプリントレビューのように、短期間で区切り、進捗と成果物をレビューする機会を定期的に設けます。
- プロトタイプやモックアップの活用: 実際の画面イメージや簡単な動作を見せることで、文章だけでは伝わりにくい部分の認識合わせを行います。
- 変更管理プロセスの確立: 要件の変更が発生した場合の申請、承認、影響分析のプロセスを明確にし、安易な変更を防ぎ、合意形成を確実にします。
「ドキュメントは手段。目的は『共通理解』と『共通の成功』だ。」この言葉を胸に、ドキュメント作成自体ではなく、それを通じたコミュニケーションと共通理解の構築に重きを置くことが大切です。
「エンジニアが全て書く」がやむを得ないケースと、そのリスクヘッジ
ここまで、「エンジニアが全て書く」ことの危険性を述べてきましたが、現実には、それがやむを得ない状況も存在します。
例外的な状況とは?
- 依頼側のITリテラシーが極めて低い場合: そもそもITシステムの概念が理解できない、ドキュメント作成の経験が皆無といった場合。
- 依頼側のリソースやスキルが著しく不足している場合: 社内に要件を整理できる人材がいない、または多忙で時間を割けない場合。
- 非常に小規模な改修案件や、既存システムの詳細を熟知しているエンジニアが他にいない場合: 特定のエンジニアが既存システムを深く理解しており、最小限のコミュニケーションで対応可能なケース。
- 受託開発で、契約上ドキュメント作成費用がサービス範囲として明確に含まれている場合: ベンダーがサービスとして全てのドキュメント作成を請け負う契約形態。
リスクを最小限に抑えるための対策
このような状況下でも、以下の対策を講じることで、リスクを最小限に抑えることができます。
- 徹底したヒアリングと確認: エンジニアは、依頼側の意図を深掘りするために、通常よりも多くの質問や確認を行います。質問リストの事前準備や、複数人でのヒアリングも有効です。
- 頻繁なレビューと承認: たたき台の段階から、細かくレビュー会を設け、依頼側からのフィードバックを繰り返し求めます。認識齟齬が発覚した場合は、その都度修正し、必ず依頼側の承認を得ます。
- 簡易なドキュメント形式の活用: 詳細な設計書ではなく、画面遷移図、簡単な機能一覧、ユースケース図など、ビジネスサイドにも理解しやすい簡易な形式のドキュメントを中心に作成します。
- プロトタイピングの早期導入: 実際に動くもの(モックアップやプロトタイプ)を早期に作成し、具体的なイメージを共有することで、認識齟齬を防ぎます。
- リスクと責任の事前共有: 「エンジニアが全て書くことによるリスク」と、それに伴う「依頼側の最終確認責任」を、プロジェクト開始時に明確に共有し、合意を得ておきましょう。これにより、後からの「言った言わない」を避け、依頼側の主体的な関与を促すことができます。
「『普通はエンジニアが全て書く』その一言が、プロジェクトを泥沼に突き落とす。」というパンチラインが示すように、安易な丸投げはプロジェクトの成功を危うくします。たとえやむを得ない状況であっても、常にリスクを意識し、対策を講じることが重要です。
結論:要件定義は未来への投資
ITプロジェクトにおける要件定義資料の作成責任は、決して一方にだけあるものではありません。それは、依頼側(ビジネスサイド)とITエンジニア(開発側)が、それぞれの専門性と責任を持って、共に「共通の理解」を築き上げる「共同創造プロセス」に他なりません。
「要件定義は、書くものではない。共に問い、共に考え、共に創り上げるものだ。」
この共同作業を怠り、「エンジニアが全て書く」という安易な考え方に頼ってしまうと、ビジネスの本質を見誤り、認識齟齬が生まれ、最終的にはプロジェクトの炎上や期待外れのシステムが完成してしまうリスクを高めます。
要件定義に時間と労力をかけることは、単なるコストではなく、未来の成功への最も確実な「投資」です。この投資を惜しまず、ビジネスと開発が手を取り合って、真の価値を生み出すシステムを共創していきましょう。
もしあなたが今、要件定義の進め方や役割分担に悩んでいるのであれば、まずは「誰が何をすべきか」を明確にすることから始めてみてください。その最初の一歩が、あなたのプロジェクトを成功へと導く確かな道筋となるでしょう。

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